高市早苗さんがついに、日本初の女性総理大臣に就任。
その華々しい肩書きの裏には、意外な過去が隠されています。
実は政治家になる以前、彼女はテレビキャスターとして活躍していたことをご存知でしょうか?
1989年から1991年の間、テレビ朝日やフジテレビの情報番組で司会を務め、当時は「知的で親しみやすい」と人気を集めていました。
本記事では、高市早苗さんのキャスター時代の番組、共演者、政治家を志した理由までを深掘りし、現在のリーダーとしての姿にどのようにつながっていったのかを解説します。
高市早苗のキャスター歴はいつからいつまで?
高市早苗さんのキャスター歴は、1989年3月から1991年3月までの約2年間。
この期間に、テレビ朝日とフジテレビの2局でキャスターとして活動していました。
メインで出演していたのは、テレビ朝日の深夜番組『こだわりTV PRE★STAGE』と、フジテレビの朝番組『朝だ!どうなる』の2本です。
どちらも情報バラエティ系の生放送で、知名度アップとともに話題の中心にいた時期でした。
高市さんは神戸大学卒業後、松下政経塾やアメリカ連邦議会フェローとして研修を受けたあと、1989年にテレビ朝日の契約キャスターとしてメディアの世界に入ります。
当時まだ20代でしたが、政治や社会問題への理解が深く、コメント力や切り返しの鋭さに注目が集まりました。
一方で、テレビの世界には完全に染まらず、どこか“別のフィールドで勝負する人”という印象もあったようです。

たった2年の活動でも、濃い時間だったんですね。今の政治家としての堂々たる姿の原点を感じますよね!!
特に1990年末には、フジテレビの朝の帯番組へと活躍の場を広げ、朝の顔としても全国の視聴者に認知されました。
翌1991年3月に『朝だ!どうなる』が終了し、キャスター業から一時退くことになりますが、翌年には早くも参院選へ出馬して政界入りを果たすことになります。
📌まとめ
高市早苗さんのテレビキャスター歴は1989年〜1991年の約2年間。
テレビ朝日とフジテレビでキャスターを務め、後の政治家人生の土台を築いた貴重な時期でした。
テレビキャスターとして活動した時期と経緯
高市早苗さんがテレビキャスターとして活動を始めたのは、1989年3月のことです。
当時はテレビ朝日の深夜番組『こだわりTV PRE★STAGE』に契約キャスターとして出演し、水曜版を中心に番組進行に関わっていました。
テレビ朝日でのキャリアは約1年半で、その後はフジテレビに移籍し、1990年11月から『朝だ!どうなる』の総合司会を担当。朝の時間帯に情報番組を届ける立場に変わったことで、視聴者層もぐっと広がりました。
この番組は1991年3月で終了し、結果的に高市さんのキャスター人生もここで一区切りとなりました。
テレビの世界に入る以前、高市さんは松下政経塾で政治を学び、さらにアメリカ連邦議会のスタッフとしても研修を受けていました。
そうした経歴を背景に「話が分かりやすく、かつ論理的」と評価され、キャスターとしての資質も高かったと言われています。一方で、本人にはもともと政治への強い関心があり、報道にとどまらず「自分で政策を実現したい」という思いが芽生えていったようです。



そもそも政治の道を目指していた人が、情報発信の手段としてキャスターを選んだ…って感じだったんですね。
当時の出演はあくまで“通過点”だったとも考えられ、後の政界進出も自然な流れとして受け止められています。
当時の立場やキャスター就任のきっかけ
高市早苗さんがテレビキャスターに抜擢された背景には、政治や国際問題に関する深い知見と発信力の高さがありました。大学卒業後、松下政経塾での学びを経て、アメリカ連邦議会の研修プログラム「Congressional Fellow」として渡米。
日本に帰国後はその経験を活かし、「政治や社会問題をわかりやすく伝える存在」としてテレビ業界から注目を集めるようになりました。
そんな中、1989年にテレビ朝日からキャスターとしてのオファーを受け、キャリアがスタートします。
当時の高市さんは、アナウンサーとしての正式な訓練を受けたわけではなく、いわゆる“ジャーナリスト枠”に近い立場でした。
知識と話術に長けたコメンテーター的ポジションとして起用され、情報番組で視聴者の信頼を得ていきます。
特に『PRE★STAGE』では、蓮舫さんらと共にトークを展開しながら、政治や女性の社会進出といったテーマに自らの意見を交えてコメント。視聴者からは「知的で説得力がある」「政治家っぽいキャスター」として注目されていました。



当時から“政治家っぽい”と言われてたのは面白いですね!将来を見越していたようにも感じます。
さらに、キャスターとして登場する際のファッションや話し方も注目されており、「知性と親しみやすさを兼ね備えた新しいタイプの女性キャスター」としての評価を確立していきました。
これらの要素が重なり、1990年にはフジテレビに移籍。
『朝だ!どうなる』では総合司会という重要ポジションを任され、番組の顔として活躍することになります。


高市早苗が出演していた番組とは?テレビ朝日とフジテレビ時代
フジテレビ #朝だどうなる は #小俣雅子 、 #石井苗子 、 #高市早苗 をキャスターにしたニュース・情報番組。次期総理大臣候補とも期待されている高市氏は若い頃は他にも同局 #世界の常識・非常識 やテレ朝 #プレステージ などよくテレビに出演していた。 pic.twitter.com/m7f9KDYfJY
— 謎の人 (@nazo_no_hito) November 29, 2023
1989年から1991年にかけての約2年間、高市早苗さんは2つの全く異なるスタイルの番組に出演していました。
一つは、深夜の情報番組として自由で刺激的な内容が人気だったテレビ朝日の『こだわりTV PRE★STAGE』。
もう一つは、朝の情報番組として落ち着いたトーンで日常生活に寄り添った情報を届ける、フジテレビの『朝だ!どうなる』です。
それぞれの番組で求められる役割やターゲット層も異なり、高市さんはそのどちらにも柔軟に対応していたのが印象的です。



深夜番組と朝の情報番組、真逆の雰囲気ですよね。両方に対応できたのがすごいです!
以下では、それぞれの番組での高市早苗さんの活動内容やエピソードを詳しく掘り下げていきます。
📌まとめ
高市早苗さんが出演していたのはテレビ朝日の『PRE★STAGE』と、フジテレビの『朝だ!どうなる』。
番組のジャンルも役割も全く異なる中で、多彩な一面を見せていました。
『PRE★STAGE』での蓮舫との共演とエピソード
高市早苗さんが最初にキャスターとして出演したのが、テレビ朝日の深夜番組『こだわりTV PRE★STAGE』です。
1989年にスタートしたこの番組は、バブル景気の真っ只中、深夜1時過ぎから放送される自由な空気感が魅力でした。
高市さんは毎週水曜の放送回にレギュラー出演しており、当時タレントとして活躍していた飯星景子さんがメイン司会、その両脇を高市早苗さんと蓮舫さんが固める形でした。
この「高市×蓮舫」という今では想像もできないツーショットが、当時のテレビ画面に並んでいたのです。
番組では、社会問題や女性の生き方、恋愛ネタ、さらにはUFOや超常現象など、幅広いテーマを取り扱っていました。
高市さんは、政治・経済寄りの硬めなテーマになるとコメント力を発揮。
特に女性の社会進出に関する議論では、自身の経験を交えながら鋭い意見を述べ、視聴者の印象に残っていました。



蓮舫さんと肩を並べて、しかも水曜レギュラーだったって…今考えるとすごすぎる組み合わせですよね!
当時の高市さんは、帰国直後のキャリアウーマンらしい個性を前面に出しつつも、時にパンク風の髪型や個性的なファッションで登場。一方の蓮舫さんは、大学生タレントとしてのフレッシュさがあり、積極的にトークをリードする場面も多かったそうです。
1990年、テレビ朝日主催でプリンス3度目の来日公演があった。プリンスのギャラは5公演で10億円。深夜番組「プレ・ステージ」ではプリンス特集があり、高市早苗さん、蓮舫さん、飯干恵子さんが司会。吉岡正晴さん、今野雄二さん他がゲストだった。@soulsearcher216 pic.twitter.com/it6zrxdWIv
— 二重作 拓也 (@takuyafutaesaku) August 23, 2024
このため、高市さんがやや控えめに映ることもありましたが、その知性と落ち着きは他の出演者と一線を画していたと言われています。舞台裏では、蓮舫さんと高市さんの間に深い交流はなかったとされ、「仲が悪いわけではないが、明らかにタイプが違った」と番組関係者は語っています。それでも、放送上ではチームワークよく番組を盛り上げ、今では“幻の共演”としてファンの間で語り継がれています。
『朝だ!どうなる』での朝の顔としての活躍
1990年11月、高市早苗さんはフジテレビの朝の情報番組『朝だ!どうなる』にメインキャスターとして起用されます。
この番組は平日毎朝7時台に全国ネットで放送され、ニュース・天気・生活情報・対談などをバランスよく取り入れた構成でした。
夜型で自由な雰囲気だった『PRE★STAGE』とは一転、より落ち着いたトーンで信頼感を重視した番組となっています。当時29歳だった高市さんは、経済や社会問題に強い知識を活かし、視聴者に分かりやすく情報を届けていました。
番組の共演者には、後に日本維新の会から参院議員となる石井苗子さんや、フリーアナウンサーの小俣雅子さんなどが参加。経験豊富なアナウンサー陣に囲まれる中でも、高市さんは堂々と番組をリードし、若手ながらも高い存在感を発揮していたと言われています。



朝の情報番組で全国放送…この時点ですでに“国民的な顔”だったんですね。
また、番組では視聴者からのハガキを読み上げたり、専門家にインタビューしたりと、幅広いジャンルの話題を扱っていました。高市さんは、松下政経塾やアメリカ議会での経験を活かして、特に経済や福祉に関するテーマでは説得力あるコメントを展開。
その知識と論理的な話し方は視聴者からも好評で、好感度も高かったそうです。
番組自体は視聴率で苦戦し、残念ながら放送はわずか5か月で終了。
1991年3月には番組が打ち切りとなり、高市さんのキャスター活動も一旦終止符を打つことになります。
とはいえ、この全国ネット番組への出演で、高市さんの名前と顔は全国的に知られる存在となりました。
短期間で終了した理由と視聴者の評価
『朝だ!どうなる』は、1990年11月にスタートしてからわずか5ヶ月後の1991年3月に終了しました。
高市早苗さんがメインキャスターとして出演していたにも関わらず、短命に終わってしまった理由の一つは、当時のテレビ朝の朝の視聴率争いにあります。
当時は同時間帯にすでに定番となっていた情報番組がいくつか存在しており、視聴者の習慣を変えるのが難しかったとされています。また、番組のコンセプト自体がやや曖昧だったため、ターゲット層へのアプローチがうまくいかなかったという声もありました。
しかし、高市早苗さん個人への評価は決して低くはなく、むしろ「知的で落ち着きがある」「聞きやすいトーン」といった好意的な意見が目立ちました。
特に、経済や政治に関する話題では的確な言葉選びと整理された話し方で、番組の信頼性を高めていた存在でもありました。



番組は終わっちゃったけど、“高市早苗という人”の印象は多くの人の心に残ったんじゃないかな。
また、当時の放送を見ていた視聴者からは「政治家になった時に“あの朝の人か!”と気づいた」という声もあり、キャスター時代の知名度がその後の選挙活動に少なからずプラスに働いたと考えられます。
一方で、バブル崩壊直前の時代背景や、番組制作の試行錯誤もあり、視聴率を安定的に維持することが難しかったのは事実です。



キャスターとしての高市さんの力量が発揮される前に、番組自体が終了してしまったのは惜しまれますが、それでも彼女にとっては重要な経験だったことは間違いないですよね!!


高市早苗はなぜキャスターから政界へ?転身の理由と背景
高市早苗さんがテレビキャスターから政界へと転身した背景には、明確な「政治家として社会を変えたい」という意志がありました。
もともとキャスター業は、情報を伝える手段の一つとして選んだだけで、最終目標ではなかったのです。
その証拠に、キャスター活動中も政治的な関心を常に持ち続けており、自身の信念を番組内で語ることもありました。



“喋る”だけでなく“動かす”側に行きたい…そんな想いがにじみ出てたのかもしれませんね。
当時の高市さんは、松下政経塾の卒塾生という経歴を持ち、アメリカ連邦議会での研修経験(Congressional Fellow)も積んでいました。社会の仕組みを中から見てきた彼女にとって、“伝えるだけでは限界がある”という思いが、徐々に強くなっていったようです。
そして1992年、高市さんは奈良県選挙区から参議院選挙に無所属で出馬。
この決断は、まだテレビキャスターとして全国に顔が知られていたタイミングだったため、大きな注目を集めました。
残念ながら結果は落選となりましたが、翌1993年の衆議院選挙で初当選を果たし、ついに政界入りを果たすことになります。
📌まとめ
高市早苗さんは“社会を動かす側に立ちたい”という強い意志から、キャスターから政治家へ転身しました。
松下政経塾やアメリカ議会での経験が、その決意を後押ししていたのです。
松下政経塾の影響とアメリカ研修経験
高市早苗さんが政治家を目指す大きなきっかけとなったのが、松下政経塾での学びと、アメリカ連邦議会での研修経験でした。
松下政経塾は、松下幸之助氏が創設した次世代の政治・経済リーダー育成機関で、ここでの経験が高市さんの“行動する政治家”としての基礎を築きました。
在塾中は、政治・経済・国際情勢・地域課題など多岐にわたる研修を受け、現場でのフィールドワークも積極的にこなしていたそうです。
その後、日米交流プログラムを通じてアメリカ連邦議会(Congressional Fellow)としてワシントンD.C.に渡り、実際に議員スタッフとして政策立案やロビー活動の現場を体験します。
この経験により「政策とはどうやって作られ、誰に届くのか」「言葉で伝えるだけでは社会は変わらない」という実感を強く持つようになったと語っています。



政治の現場を直接体験したからこそ、“自分が動くしかない”っていう意志が芽生えたんでしょうね。
キャスター時代にはその知識を活かし、番組内で政治的なテーマに対しても臆することなく発言していた高市さん。
しかし、テレビという枠の中で「伝えるだけ」に限界を感じることが増えていき、ついに自ら政治の世界へ飛び込むことを決意します。
このように、高市さんにとって松下政経塾とアメリカ議会での経験は、キャスター活動以上に人生の軸となる価値観を形成する貴重な時間だったのです。
992年参院選出馬と落選後の転機
1992年、高市早苗さんは奈良県選挙区から無所属で参議院選挙に初出馬します。
当時まだ30代前半で、政治家としてのキャリアもなく、無所属というハンデを抱えながらの挑戦でしたが、本人の中では「政治家になる」という強い決意が固まっていました。
テレビキャスターとして一定の知名度があったとはいえ、選挙戦は厳しく、結果は落選というスタートになります。
選挙期間中には、対立陣営からのネガティブキャンペーンや怪文書のばらまきなども経験し、政治の現場の“泥臭さ”を目の当たりにすることになります。
それでも高市さんは決して諦めることなく、「ここで負けたまま終わってたまるか」という強い姿勢を貫きました。



キャスターだった人が、こんなにも本気で政治に挑むって…すごい覚悟ですよね。
この落選がむしろ、政治家としての本気度を周囲に示すことになり、翌年の1993年に再び衆議院選挙に自民党から出馬。見事トップ当選を果たし、晴れて国政の場へと進出します。
テレビという“伝える立場”から、政策を動かす“決める立場”へ。
高市早苗さんの人生はここで大きく転換し、本格的な政治キャリアがスタートしました。
この経験を振り返って高市さんは「どんなに志があっても、行動しなければ何も変わらない」と語っており、今の政治姿勢にもその想いが色濃く反映されています。
高市早苗が総理大臣になるまでの歩み
高市早苗さんが政治の世界に本格的に踏み出してから、すでに30年以上が経過しています。
その間、総務大臣や経済安全保障担当大臣など複数の要職を歴任し、2021年の自民党総裁選では女性として初めて本命候補として名が挙がるなど、ついに「総理大臣に最も近い女性政治家」の一人として注目を集める存在になりました。
ここまでの歩みの中で、キャスターとしての経験は決して“過去の経歴”ではなく、今も生きているのです。
テレビキャスター時代に培った「分かりやすく伝える力」「人前で話す度胸」「場の空気を読むセンス」は、政治家としての活動のあらゆる場面に活かされています。
国会答弁や記者会見、テレビ討論の場でも、高市さんの話しぶりには明快さと落ち着きがあり、多くの人に「信頼感がある」と評価されています。



“テレビ出身だから話がうまい”って、実は政治家としてすごく武器なんですよね。
また、松下政経塾時代から抱いていた“国家観”や“責任ある自由主義”の理念は、今も政策の柱となっており、2021年の総裁選でもそうした軸のブレなさが多くの支持を集めた要因でした。
近年は経済安全保障や情報発信政策、メディアとの関係など、多くの場面で“キャスター出身”という強みを持つ高市さんだからこそ実現できる取り組みに注目が集まっています。
そしてついに高市早苗さんは、ついに日本初の女性総理大臣としてその名を刻みました。
その原点には、キャスター時代に培った「伝える力」と、政治家としての信念が一本の道として繋がっていたことがうかがえます。
📌まとめ
キャスター時代の経験を活かしながら、政治家として数々の実績を積み重ねてきた高市早苗さん。
今や女性初の総理大臣に成長した歩みには、一貫した信念と努力が見て取れます。
まとめ
今回の記事では、高市早苗さんのキャスター時代から総理大臣に至るまでの歩みを紹介しました。以下が要点です。
- 高市早苗さんは1989年にテレビ朝日『PRE★STAGE』でキャスターデビュー
- 蓮舫さんと共演し、社会派番組で知性を発揮
- フジテレビ『朝だ! どうなる』でもメインキャスターを務める
- キャスター経験を経て1992年に政界入りし、2020年代に日本初の女性総理に就任
- 伝える力と信念を武器に、政治家としての道を切り拓いてきた
高市総理の現在の姿を見れば、テレビ時代の経験が決して通過点ではなく、国民と向き合う原点だったことがわかります。
このキャリアの重なりが、今の強く信念を持つ女性リーダー像を形作っているのです。

